夏目漱石の漢詩を鑑賞して参ります。
夏目漱石之漢詩鑑賞 第三十五作
無 題 明治二十三年八月
仙 人 堕 俗 界
仙人 俗界に堕ち
蒹 不 免 喜 悲
遂に喜悲を免れず
啼 血 又 吐 血
啼血 又 吐血
憔 悴 憐 君 姿
憔悴 君が姿を憐む
漱 石 又 枕 石
漱石 又 枕石
固 陋 歡 吾 癡
固陋 吾が痴歓ぶ
君 痾 着 可 癒
君が痾 猶お癒すべし
僕 癡 不 可 醫
僕が痴 医すべからず
素 懷 定 沈 鬱
素懷 定めて沈鬱
愁 緒 亂 如 絲
愁緒 乱れて糸の如し
浩 歌 時 幾 曲
浩歌 時に幾曲
一 曲 唾 壺 碎
一曲 唾壺砕け
二 曲 雙 涙 垂
二曲 双涙垂るる
曲 闋 呼 咄 咄
曲闋んで呼ぶこと咄咄
衷 情 欲 訴 誰
衷情 誰に訴えんと欲す
白 雲 蓬 勃 起
白雲 蓬勃として起り
天 際 看 蛟 螭
天際 蛟螭を看る
笑 指 函 山 頂
笑うて指す 函山の頂
去 臥 葦 湖 湄
去りて臥す 葦湖の湄
歳 月 固 悠 久
歳月 固より悠久
宇 宙 獨 無 涯
宇宙 独り涯無し
蜉 蝣 飛 湫 上
蜉蝣 湫上に飛び
大 鵬 嗤 其 卑
大鵬其の卑を嗤う
嗤 者 亦 泯 滅
嗤う者は 亦泯滅
得 喪 皆 一 時
得喪 皆一時
寄 語 功 名 客
寄語す 功名の客
役 役 欲 何 爲
役役として何をか為さんと欲す
〔語釈〕※啼血ー血を吐くほどに声を出す ここでは咳込むこと ※吐血ー血を吐くこと ※憔悴ー痩せ衰える。※漱石 枕石ー漱石の雅号の由来 晋の孫楚が「石を枕にし流れに口漱ぐ」を誤って「石に口漱ぎ流れに枕す」いった。誤りを改めずにこじつけた頑固者を云う故事。※固陋ー見識の浅い頑固者。※癡ー痴と同じここでは漱石のこと。自分の事を癡と云っている。※痾ー病気。※素懐ー日頃抱いている思い。※浩歌ー大声でうたう。※闋ー曲が終わること。※咄咄ー思いがけず発する言葉 おや。この語はよく解らない、むしろ言葉がうまく出ない 訥々ではなかろうか。ちなみに どちらも月韻。※蛟螭ーみずち。竜の一種、架空の動物。※函山ー箱根山。※葦湖ー芦ノ湖。※蜉蝣ーかげろう。はかない命に喩える。※湫上ー池の上。※大鵬ー大きな鳥。※泯滅ー滅ぶこと。※得喪ー得ると失う。成功と失敗。※役役ー心身を労すること。
◇五言古詩 一韻到底格
〔通釈〕仙人も俗世間におちれば、喜悲もまた付いてくるものですね。君(子規)はせき込みせき込み血を吐き痩せ衰えてゆくのをおもうと本当に気の毒に思う。僕(漱石)と言えば頑固に自説を押し通している。君の病は癒せても、僕の頑固は治らない。そして常に思っていることは、沈鬱な性格と愁いにもつれる糸のように乱れていることだ。そんな時には大声で歌うんだ。一曲うたえばたん壷が割れるほどに、二曲歌えば涙があふれる。歌い終わって、一体誰に僕の心を訴えるのか、空にめをやれば白雲がわき起こり、みずちが天に昇らんとしている。そうだ、箱根に登り、芦ノ湖のほとりで身を休めよう。歳月は永遠だし、宇宙は果てしない、利害損得は一時の夢。世間の功名心にあくせくしている御人よ。そんなにしてまで一体何をしょうとするのだ。
〔補説〕この詩の前に、君の論説をうけても浮世は矢張り面白くもならず夫故明日より箱根の靈泉に浴し又また晝寝して美人でも可夢候と記している。その後二十日間ほど箱根に遊んだのである。
この詩から想像できることは子規の病状はかなり悪い、
君 痾 着 可 癒
君が痾 猶お癒すべし
僕 癡 不 可 醫
僕が痴 医すべからず
と云っては居るがこれは慰めにすぎない、
これは筆者の想像ですが子規は自分の余命の僅かなるを知り内心そうとう荒れて居たのではないか。それと自分の考えや知っていることを後世に伝えたかったと思われます。それ故、人の作品に猛烈な攻撃をしています。それに対抗したのが朔太郎です。それらの論争に些か漱石は嫌になったのではないか。それで今回このような詩を作って箱根に逃げたのでは、これは根拠のない筆者の邪推ですが、当たらずとも遠からずと思っています。
前号でも述べましたが、漱石は子規のことを、功名の客、と詠んでいる。漱石はこの時廿四歳の若者ですから子規の事をそのように思えたのでしょう。しかし死期の間近なるを予感する子規には止むに止まれぬ行為だったとおもう。
つづく
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