夏目漱石の漢詩を鑑賞して参ります。
夏目漱石之漢詩鑑賞 第四十作
函山雜咏 八首
明治二十三年九月 (五)
百 念 冷 如 灰
百念 冷ややかなること灰の如く
靈 泉 洗 俗 埃
霊泉 俗埃を洗う
鳥 啼 天 自 曙
鳥啼いて 天自ずから曙(あ)け
衣 冷 雨 將 來
衣 冷やかにして雨将(まさ)に来(きた)らんとす
幽 樹 沒 青 靄
幽樹 青靄に没し
閑 花 落 碧 苔
閑花 碧苔に落つ
悠 悠 歸 思 少
悠悠として帰思少なく
臥 見 白 雲 堆
臥して見る 白雲の堆(うずたか)きを
〔語釈〕※百念ーさまざまな考え、念(おも)い ※冷如灰ー冷灰の如くにしずまり心の平静を云う。無心を云う。『荘子』(齊物論)に
「形固可使如槁木」(形は固(もと)より槁木(こうぼく)のごとくならしむべく)
「心固可使如死灰」(心は固(もと)より死灰の如くならしむべきか)
と、ある 槁木は枯れ木 忘我の境地の比喩。修行の積んだ人にのみ達する境地であろう。※霊泉ー不思議な効能のある温泉。ここでは箱根の湯。※俗埃ー俗世間の穢れたほこり。※幽樹ー鬱蒼とした樹木。※青靄ー青がすみ。※閑花ーひっそりと咲く花。※碧苔ーあおい苔。※白雲ー隠者にも喩えられる。
◇五言律詩 上平声十灰の韻(灰・埃・來・苔・堆)起句にも押韻している
〔通釈〕都会暮らしのさまざまな念いも山にきて心は冷灰の如く鎮まり霊泉に浴して俗埃も洗えた。鳥の声で夜が明けた衣の冷たさで雨の近いことがわかる。鬱蒼とした樹木は青かすみにけむり、ひっそりと咲く花は苔の上に花びらを散らしている。ゆったりとして都会に帰る気持ちがうすれ、寝そべって黙々と積み重なる白雲を見ている。
〔補説〕脱都会の隠者的思い。老荘思想をも詠んだ詩とも云える。
『草枕』に通じた詩では無いかとも思われる。子規は此の詩の結聯を評して「結句有悠然見南山之趣(結句は悠然として南山を見るの趣あり)」と。
筆者は近頃考えが冷めていて、まだ若かりし漱石にどれ程の隠者的思想が有ったのかと思う。むしろ頭(学力)で作られた詩では無かろうかと思う。東洋的思想へのあこがれかも知れない。
つづく
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